つらい朝
3月5日、3週間の一時退院を終え病院に戻る日がきました。
朝、長女を見送り、長男を保育園へ送っていく。
普段ならなんともないこの朝の始まりが、3月5日の私にはとても辛いものでした。
3週間の退院の中で1番エネルギーのいる朝でした。
最悪の場合、家で子どもたちと会うのはこれが最後・・・でも、涙は絶対見せたくなかった。
子どもたちは私以上に辛いかもしれない。でも泣かないで頑張ってくれてる。
泣くどころか私を励ましてくれてる。
私の入院中、おじいちゃん、おばあちゃんをこまらせないよう、いっぱい我慢してるはず。
私が泣いたら、子どもたちの張り詰めてるものまで壊してしまう。
私が頑張らないと子どもたちも頑張れない。
必死に涙をこらえて長女を見送り、長男を保育園に連れて行きました。
辛い時間がやっと終わり、ある意味ほっとしました。
今度はいつ帰って来れるんだろう?秋?冬?・・・・・帰ってこれる・・・よね・・・?
そんな思いで家を出ました。
病院に着いて、両親と一緒に先生の話を聞きました。最後に
「今週は採血くらいしかないし、今週末、最後の外泊しておいで」
・・・・・ヾ('o’ヾ(’o’ヾ(’o’;)ォィォィォィ
あの辛い朝の別れはなんだったの?今度はいつ?そんな思いで眺めた家・・・
またやり直し???(苦笑)
という訳で1週間後やり直しです(苦笑)
でも正直迷いました。あの辛い朝をまた迎えなければいけない。
自分自身、納得して家を出てきたのだから、外泊はやめよう・・・でも子どもたちに会える・・・
結局、子どもたちと一緒に過ごせるということと、先生の一言で外泊することにしました。
「元気で帰れるのはこれが最後と思って行ってこい!!」
移植準備開始
■カテーテル■
外泊から戻った次の日、カテーテルの挿入手術がありました。
移植中は大量の点滴なので腕の細い血管じゃできません。
右鎖骨のあたりから1番太いと言われている血管にカテーテル(うどんくらいの太さ)を左の胸辺りまで入れます。
中で癒着させ、しっかり固定?これで安心♪・・・のはずが、入らない・・・
どうも私の血管は人より細く奥のほうにあるみたいで、かすりもしなかったとか・・・
来週、IVHというカテーテルの半分くらいの太さのを入れることになりました。
それでダメなら足の付け根から・・・(>_<") それだけはいやっ・・・
私の願いが通じたのかIVH成功です♪それでもかなりむずかしかったみたいです。私のは・・・
移植を受ける人はカテーテルorIVHが入った時点で「もう逃げられない」と諦めがつくそうです。
私には逃げるとかそんな感情なかったなぁ・・・心臓に毛が生えてるってこういうこと?(笑)
今思えばこれが強人SERIAの始まりだったのかも・・・(笑)
■薬・無菌食■
Day-14から薬と無菌食が始まりました。
薬はバクタという肺を守る薬が合わなくてアレルギーがでたので中止。
ファンギゾンシロップという口から肛門までを殺菌してくれる薬はオレンジでどろっとしてめちゃまずい。
これは吐かせるための薬だろうか?と思うくらい(笑)
飲み始めの頃は飲んで3時間はむねやけしてました・・・
あと・・・粉薬はオブラートなしでは飲めない私・・・
無菌室にはオブラートを入れられないらしくらしく、そのまま飲む練習が始まったo(TヘTo)
クゥ
無菌食は・・・まずい!!(笑)食堂から上がってきた食事をレンジで5分加熱。
野菜とかは匂いがきつくなるしお肉は硬くなって噛めない。
ごはんは、そのまま加熱するとパサパサになるから滅菌蒸留水をかけて加熱。
上のほうはパサパサして固い。下のほうはべちゃべちゃ・・・このころからご飯粒がキライになりました。
1人個室でおいしくもない(ごめんなさい)無菌食を前に泣いたことがあります。
なんで私はこんなもの食べてるんだろう?なんで好きなもの食べちゃいけないんだろう?
なんで病気になったんだろう?なんで私が・・・・・
移植が近づくにつれ、だんだん弱虫になっていきました。
■カンファレンス■
移植の10日前に、医療スタッフ・家族・そして私でカンファレンスが行われました。
18:30から15分程度のカンファレンスに両親・長女・長男はもちろん、姉家族まできてくれました。
移植についての一通りの説明などがありました。そこで先生に言われました。
「1番のんきに構えてるのは患者本人です。早く終わらせて早く帰りたい、と言っています。」
ははっ(*'-'*)ゞポリポリ
どうせしなきゃいけないなら、早く終わらせて早く帰りたいじゃない(笑)
そのあと無菌室を見学して終わりとなりました。はぁ・・・また子どもたちと離れる時が来ました・・・
ほんとにほんとに、しばらくこの笑顔は見れない。1ヶ月か2ヶ月か・・・
最悪の場合・・・は考えないようにしよう。
そうそう。今日は長女の卒業式だった。行きたかったな・・・
でも、卒業式に行ったそのままの服装で来てくれた♪卒業証書持って。
卒業おめでとう!! 中学でも頑張れ!!
前処置開始、そして無菌室へ
■放射線照射(TBI)■
カンファレンス、IVH挿入の2日後、いよいよ前処置が始まった。
まずは放射線照射。全身なのでかなりきつかった。
右側から26分、左側から26分の合計52分。これを午前と午後1回ずつ×3日間。
この約1時間の間、透明な棺おけのような箱に寝てなければいけない。
華奢な私でもちょっと余裕があるくらいの箱の幅。長さは身長156cmの私でもひざを曲げて入るくらいです。
これが照射のためかどうかはわからないけど・・・
肩から上は氷嚢で固定され、目と肺には照射できないのでブロックをする。
1時間の間、ブロックがずれないように動かないでいるのはきつかった。
頭と肺の位置がずれないようにして、足とか手とかはもじもじしてたけど(笑)寝てしまってピクッとか(笑)
照射が始まってから無菌室を出るまでずっと、氷で喉と耳の下からあごにかけて(両方)冷やしました。
前処置で唾液腺や口腔、喉をやられてしまうので少しでも症状を軽くするために。
そして、食事がほとんど入らなくなったのがこの頃から。むねやけ、吐き気で全く食べる気にならず・・・
3日目(TBI最終日)の朝は起きれなくて先生に起こされました。
なんとか起き上がり、うがいに行こうと立ち上がったけれど・・・
歩くこともそのまま立っていることも出来ず、その場に座り込んでしまいました。
「今日が最終日なのに、こんな状態でTBIなんてできない・・・」
と、弱気になっていた私だけど、30分後にはすっかり普通に。(決して元気にとは言えない(笑))
吐き気止めの点滴に先生が魔法の薬をまぜてくれたので(笑)最終日もなんとかクリアしました。
照射中は機械の大きな音をかき消すくらいに大きな音でCDをかけてくれた。
自分のCDを持ち込んでかけてもらったんだけど・・・
その後、そのCDは移植後5ヶ月になろうとしている今現在、1度も聞いたことはない。
■抗がん剤・免疫抑制剤■
前処置4日目5日目は抗がん剤投与。通常の治療の5〜10倍。
今思えばこの2日間が1番楽だった。ちょっとだるいくらい。
6日目7日目は免疫抑制剤投与。吐くとしたらこの日と言われていました(笑)
先生の言う通り、この2日間は吐き気との闘い。最終日の夕方、吐いてしまいました。
前処置が始まって退院するまで、吐いたのはこの1回だけでした。強人SERIAここでも登場♪
もともと、吐くことがキライ(好きな人はいないだろうけど)というか慣れてない私は
とにかくこの吐き気をどうにかしたくて、先生の「もっと強い薬(吐き気止め)あるけど使う?」
この言葉に思いっきりうなずいていました・・・その結果・・・
ほんと強い薬で・・・今、自分が何をしてるんだか、あれ?へっ?(゚ー゚*?)オヨ?
NsのKさんに「ふぇ〜(>_<)なんかおかしいぃぃーーー」ちゃんとしゃべれてたんだろうか・・・?
Kさん心配してくれて、緊急の場合しか無菌室に入室しないのに「入ってこようか?」と言ってくれた。
何故か頑なに「いや、大丈夫」と言っている私がいた(笑)先生には笑われた(^^ゞ
次の日、1日お休み(治療ナシ)して移植へ・・・
■無菌室■
放射線最終日に無菌室に入った。
最後の照射が終わって30分ほど休憩して無菌室に入る準備をする。
その30分は他の病室へ(笑)仲良しさんにいってきますのあいさつ・・・のつもりが長くなり
「やっぱりここいた!!」と、Nsに連れ戻されました(笑)
みんなに見送られ、移植後のTくんに握手してもらい、笑顔で無菌室に向いました。
無菌室の前前室で裸にされ(笑)ピンクの消毒風呂に入ります。頭も顔もとにかく全身消毒。
久しぶりのお風呂だぁ〜(今まではシャワーだったから)と気持ちよかったのもつかの間、
「まだ?まだぁ?」10分は長かった・・・上がった私は座り込んで立てなかった(苦笑)
滅菌されたタオルで身体を拭いて全身クリームを塗られ、床に敷かれた滅菌シーツの上を歩いて無菌室へ。
無菌室の入り口で完全防備?で先に入室していた先生に
「あと1歩進んだら、もうしばらく出られないよ。」
そんなこと言ってもここで止める訳にはいかないでしょ(笑)素っ裸にクリームべっとりで逃げられる?(爆)
入室してクリームをきれいにふき取り、滅菌された下着とパジャマを着てから
胸の上あたりにぶら下がっているIVH(3本)に4mの命綱がつながりました。
命綱、そういえばかっこいい?けど、実際はつながれた犬って感じ?(笑)
入室した日の夜、家に電話をかけました。無菌室にはベッド横に電話があったので。
子どもがなかなか切らないので「あまり長く話せないから。またかけるね。」と言って切りました。
明日もあさっても、ちょっとずつでもいいから毎日かけるつもりだったから。
でも「また」はそれから1ヶ月半後でした。無菌室での私はとにかく弱虫でした。
面会に来た親の顔を見ては泣き、子どもの話になれば泣き、手紙を読んでは泣き・・・
電話で声を聞くことも話すことも出来なくなってしまいました。
電話もない、面会にも行けない子どもたちはさみしかっただろうな・・・ごめんね。
CML 闘病記
CHAPTER 2 ■2001.03 VOL.1■